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話を先に進める前に 15才で生き別れた理由を書きますね。
僕は前橋市の隣、、伊勢崎市の魚屋さんの息子として生まれ
育ったのですが 5才まで母親の存在を知らずに育ちましたが、、
中々、平凡に生きられる人って居ないですからね。 僕の半生も
結構波乱の人生と言われます。 が、その辺は機会があった時に
でも書くとして 実家の稼業は 僕が小学校高学年になる頃は
魚屋さんからスーパーマーケットになっていました。 今は何処に
行っても当たり前のようにあるスーパーですが 当時はまだ珍しく
商売としては それなりに大きかったようです。 それを裏付ける
いくつかの出来事を話すと 小学生の時、駅にあった石柱に
チェーンの垂れ下がった柵?を飛び越えようとして見事失敗。。
鼻血を出していた僕を 駅員さんが抱えて畳の部屋に寝かせて
くれた直後、、おじいちゃんが迎えに来てくれたのです。 何処の
誰とも言っていないのですから 何処の家の子供か知っていた?
って事なのでしょう。 また、近所の商店街で買い物をするのに
お金を持って買いに行った記憶はありません。 きっと後で精算
してたんでしょう。 さらにある時は当時のマルハ大洋漁業まで
僕の通う小学校校庭から ヘリコプターでおじいちゃんと二人で
乗ったのですが、、なんだったのでしょう?? これで何となく分る
でしょうが わりと金持ちの馬鹿息子として育ったのが僕でした。
ところが、中学三年のある晩、、僕の部屋に顔を出した親父は
「どうだ、、最近元気か?」と ニコッとして言ったのが最後でした。
数日後、月末の霧雨が降りしきる夜、 12時の日付が変わった
途端、店のシャッターが開けられ、、我先に店の商品や備品を
持ち出すさまに、、「これが倒産か・・・」と思った記憶があります。
翌日にはスーツを着た人達が自宅の品物に赤い紙を貼っていく
、、、そう、、父親は倒産直前に蒸発したんですね。 倒産という
バタバタは数日でしたが その後のほうが僕には辛い時期でした。
なまじ商売が大きいせいで 道を歩いていても大人達がヒソヒソ
話をしているのが分る。。学校に行っても みんなが気を遣って
いる。。。そのほうが辛かったです。 不思議なもので 昨日まで
上着のほころびなんて全く気にならなかったのに、、今はやたらと
気になる。。けど、数日もすればいつものように戻るのが子供の
世界でした。 でも、生活は大きく変わり、残った6人の家族は
2つに分かれ、、母親と二人の姉妹は借家へ 祖父母は市営
住宅に引っ越すのですが 僕はどちらに行くのか選べと母親に
言われ、、祖父母と一緒に住むことにしたのです。 この時から
40年間行方不明のままでしたが 不思議と父親に対する怒り
のような感情は湧きませんでした。 僕の知る父親は子煩悩で
顔はジェリー藤尾さんのような感じで 派手好きな 人の良い、、
お人好しな男だったし、きっと父なりに稼業を大きくしようとした
のでしょうが、、どこかの歯車が噛み合わなかったのでしょう。
僕自身経営者となって20年の時が流れましたが、事業とは、、
頑張れば何とかなる、、、ってもんじゃ無いのが現実だからです。
これが、15才で生き別れた理由ですが、僕の人生にとっては、、
必要悪だったように思えます。 たいした男ではありませんが、、、
その結果として 今の僕が存在しているのですから 反面教師
としてですが、、父親の役割を果たしてくれたのでしょう。 そして、
人生最後の仕事に導いてくれたのも 父親がきっかけですから
やっぱ、、どこまでも親は親なんでしょうかね。・・・つづく
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