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それは四十年前の話、中学三年生の時、霧雨の降る夜、午前
零時を過ぎた途端、店の周りに駐車していた問屋さん達の車から
一斉に人が飛び出し、店のシャッターが開けられ、我先にと店に
ある物全てを持ち出すのです。 それを、雨の中で見ていた僕は
「これが倒産なのか」と呆然と眺める。 何でみんな夜中まで待って
いたのか、明日だって良いだろうにと思いましたが、 その疑問の
答えが翌日分ります。 背広を着た人達が来て紅い紙に金額を
書いて 片っ端から貼って行きます。 差押さえです。 これがある
から、その前に運び出したと分りました。 その後は年寄り二人と、
母親姉妹二人に分れて住む事になるのですが、年寄りっ子の
僕は、結局お爺ちゃん、お婆ちゃんと一緒に住むことになるので、
両親と過ごしたのは この時までです。 そこからの生活は、生活
そのものより、人の目のほうが遥かにうっとおしい日々です。
高校に入ってからは、バイトをしないと何も買えませんが 当時、
バイトをするには学校の許可証が必要なのと、許可されるのは
学校で授業の無い時間帯で、新聞配達か牛乳配りがせいぜい
です。 それではお金にならないので、内緒でキャバレーで オード
ブルを作ったり、スルメを焼いたりと フロアに出ないで済むバイトで
稼いでいました。 その生活自体は 別段どうって事もなく過ごし
ましたが、いつまでも、、いつまでも尾を引いたのが、対親戚だった
のです。 親戚同士が集まるのは仏事が圧倒的で お酒が入り
ます。 すると、毎回、父親非難をする親戚、しつこい!と、切れ
そうになるのを我慢するだけでした。 その状況は十年以上も続き
ましたが、それでも我慢して出席し続けたのは、これで付き合いが
無くなったら、僕に子供ができた時、、その子達には親戚が居なく
なると考えたからでした。 今はその世代もこの世を去り、そんな話
さえ出ませんが、やはり 付き合いは最低限になっている自分が
います。 この家族はきっと、僕と似たような経験をしているであろう
事は、話の様子から分りました。
ご自宅をあとにして事務所に走る頃は日付も変わっていましたが、
車中、「俺達、何をしに来たのかね、、葬儀の相談じゃなくて、
人生相談か?」と思いつつも、心はどこか晴々としていました。
翌日 約束の図面を書いて持って行くと、昨日と違って歓迎ムード
です。 病院にもみんなで行ったようで、家族の顔は昨日より明るく
なっていました。 お母さんはアルバムを持って お父さんの所へ行き
思い出話しをしたようです。実に素直な人です。本日も昨日同様
人生相談二日目の夜でした。
その後、二度ほど息子さんが事務所を訪ねてくれた時、葬儀の
全てをお任せしたいと決まったのです。 病院から家族が呼ばれた
時は 連絡をくださいと言ってから、、最長の三週間も過ぎ、年の
瀬を迎えようとしていた時、あんしんサポートは、ある葬儀をして
いました。 その葬儀で使用する門標を取りに出かけた先で偶然
次男と会ったのです。 「お、暫く!」 そう言う僕に笑顔で会釈
しながら「どうも」 「ところで、お父さん元気になった?」 「きっと
身体は、悪くなっているんでしょうが、最近は我がまま言うように
なって 母さんと喧嘩してますよ」それを聞いた僕は、家族が毎日の
ように病院に行っているのが分りました。 本書を読む皆さんにも
分りましたか? 「みんな毎日病院に通ってるんだね。多少我が
ままになっても良いから そのまま元気になるまで通い続けてって
家族に伝えて」 「は、はい・・」何で分ったんだろうとでも思ったの
でしょう。 次男は少し不思議そうな顔はしましたが、すぐに笑顔で
暫し雑談をして別れたのです。・・・つづく
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