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なぜか!? 日本は元々土葬が普通です。 土葬は即日納骨とも
言える訳です。 そこで、僕なりの基準を作ることにしました。 その
基準とは法律です。これだけは犯すと犯罪となるから、、それだけの
理由です。それで分ったのはですね。「死亡は医師やそれに準ずる
機関の診断を要する」 「死亡から二四時間は火葬できない」
「火葬には行政の発行する火葬許可証が必要である」そして、
法律ではありませんが火葬場の基準として「ふた付きの棺で搬入」
基本的にはこれだけです。 もっと言えば、 法律で火葬が決まって
いる訳ではないので土葬でも法律には触れません。が、県市町村
の条例で土葬が禁止されている事もあるので その点は注意です。
そうそう、時々聞かれるのが病院等で亡くなった遺体の搬送です。
緑ナンバーの専用車じゃないと運べないと思っている方も多いようで
すが、死亡診断書さえ携帯していれば自家用車で運んでも法的
に何の問題もありません。 緑ナンバーは遺体搬送をする事で費用
を貰う場合、運送屋さんの場合は緑ナンバーが必要だって事です
現に遺体搬送の許可は一般貨物運送事業者の登録であり、
遺体は物として扱われているのです。色々調べましたが結局分らず
、、ただ、 お陰で様々な知識や由来が分ったのは 後々非常に
役に立つ結果となるので、僕にとっては必要な時間だったようです。
それにしても、折角調べたのに、分らないままでは、納得できない
性格の僕は、経営する美容室の店長に 「葬儀の仕事をしている
お客様っている?」 「何人も居ますけど なにか?」「じゃあ、一番
性格的に癖の無さそうな人が来たら 事務所に連れてきてくれない
?」これが、のちに あんしんサポートを一緒に立ち上げる千明(ち
ぎら)との出会いのきっかけとなるのですが、 調べてわからなきゃ、、
聞けば良いと思ったのです。
【 不思議な出会い 】
店長に伝えてほんの数日後、メガネを掛けた素朴な感じの中年
女性が事務所に来たのです。 挨拶をすると、この間、僕の中に
出来た葬儀に対する考え方や疑問、思いなどを一気に話したの
です。 当然、素人さんは、、、と言われるだろうとの予測は外れ、
千明のくちから出た言葉は「その通りだと思います」でした。
「はっ?」僕のほうがあっけにとられましたが、彼女が言うには、自分
も相手が喜んでくれる葬儀の提供がしたいと思っているとの事。
その日は2時間ほど話をして帰りましたが、良かったら時間のある
時はいつでも来て話し相手になってください。 と言うと「はい」と
笑顔で帰ったのです。 ただ、少し引っ掛かるのは 彼女の勤める
葬儀社は県内では最大とも言える規模ではありますが、僕の聞
いた限りでは「高い」と言われている事でした。 その後、何度も
事務所を訪ねてくれ、葬儀について語っていたある日、神妙な顔で
僕に言います。「オーナー、ちょっと良いですか?」「ん?なんですか」
「オーナー葬儀屋さんを始めませんか?」 「はぁ? 何で僕が葬儀
屋するの?」・・・つづく
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前橋に戻った僕は早速ネットで葬儀を調べます。 ところが、調べ
れば調べるほど疑問が増え続けるのです。 ひとつ分ったのは現状の
葬儀は、仏式を例にとると宗教儀式の部分と、故人を弔う、故人
とのお別れの儀式の二部構成であるということ。とすると僕のような
無信仰の人間なら違う形の葬儀もあり得るのだと思い始めます。
罰当たりかもしれませんが、僧侶が引導を渡すと言いますが、そん
な事が本当にできるのか? 引導を渡した証拠でもあるのか?
そんな風にさえ考える自分が居たりします。なら、故人が好きだった
カラオケ大会を開いて みんなで故人の好きだった歌を歌いながら
送ってあげたほうが ずーっと真実味があるなんて思ったりなのです。
それでも、ネットや書物から色々な知識は得られました。 但し、
宗教であれ、思想であれ、偏りのあるものは読まず、吸収せずの
構えです。例えば塔婆という板があります。卒塔婆とも言いますが
上のほうは多重塔のような形になっています。これは、釈迦が入滅
(亡くなった)時に遺骨を納めた場所が土で出来たストゥーバという
建物に由来し、日本語で塔婆(とうば)と当て字にしているのです
が、ここまでは塔婆本来の由来でしかありません。が、これに、だから
塔婆を墓に供えて供養するのです。となると、それは宗教観の話だ
って思うってことです。 ところが葬儀は、仏式、神式、教会式、みん
な違います。先ほどの「引導」は仏教だけですし、同じ仏教でも
四十九日は仏になれず、この世に留まり、或いは四十九日を掛け
て仏となると唱える宗派もあれば、亡くなるとすぐに極楽に行くという
宗派もあったりで、ど素人の僕には、ちーとも分りません。また、戒名
や位牌に関して言えば、本来仏教に位牌は無く、位牌があるのは
儒教です。もっと不思議なのは、戒名はあの世で使う名前ですと
現役の僧侶と称する人が言っている文章もあるのですが、戒名の
由来を学ぶと、戒名とは、俗世の生活を捨て、釈迦の教えに従っ
て生きる人達が現世を捨てた時、俗名も捨てる事となるので頂く
のが戒名という事らしいのです。とすれば戒名とは本来、死して持つ
名前ではなく、生きて使う名前なはず、そして、文字数によって金
額差がある事自体変だと思えるのです。この世に生まれた人達は
みんな名前を持っていますが、一万円程度の金額で誰かに付けて
貰った名前ならあるだろうけど 五十万円だ、百万円だ、なんて有
り得ないでしょ? なのに、戒名に数十万は当たり前のように支払
われている。言い方は悪いかもしれないし 失礼な、無礼なのかも
しれないが、無知な人間の戯言だと思って聞いて頂きたいが 一歩
間違えれば霊感商法にも似たりと思えるのは 俺だけだろうか?
とにかく、調べれば、調べるほど分らなくなるし、地域によって、やた
ら違うしで、当時の僕の結論として葬儀の決まりは無く、葬儀屋
さんや宗教者が作ってきた事が殆どだと分り始めたのです。 その、
最たる事柄であり、誰でも分るのは、納骨は四十九日か三十五
日に行なう儀式が決まりだと思っていませんか? でもこれは、後から
作られたものです。・・・つづく
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なんと七十代の女性ではなく、後から聞くと六十一才の女性だった
のです。それを見た途端、さすがに俺の親だ、、と思うと軽く笑いが
出てしまいました。 「何かおかしいですか?」 「いえいえ 思い出し
笑いしちゃいました すみません」正直、内心ではホッとしました。
これからの人生はいくらでも考えられる年代だったからです。 軽く
挨拶を済ませると車に乗って貰い静かに話のできる場所を聞きます
案内してくれたのはホテルのロビーでした。 最初の一時間ほどは、
本当に息子さんなのですか?の繰り返しです。父親は彼女に天涯
孤独の身だと言っていたそうで 子供さんが居るなんて 今でも信じら
れないと言います。 ところが僕の名前を言うと 「その名前は甥っ子
さんだと何度も聞いた事があります」と言うのです。「はぁ 天涯孤独
なのに甥ですか?」 そう言われた彼女は 「あ、ほんとだ」 初めて見
せた笑顔でしたが それで打ち解けたようです。 その日は、結局
ホテルの部屋をとって一晩中寝ずに話をしました。青い海が好きで
海外旅行にも あちこち連れて行って貰ったようです。 最後の海外
旅行となったグァムでの写真は、頭にバンダナを巻いたジェリー藤尾
さんのような風貌の男性が写っています。僕の頭の中にある容姿と
同じ ちっとも変わっていませんでした。 一通りの話をすると父親の
最後や葬儀、そして、焼骨は好きだったハワイの海に散骨したと
聞かされました。 散骨という言葉は聞いた事がありますが本当に
あるんだ、、これが最初の感覚でした。 父親は人生の終幕は全て
計画を立ててあり、線香は嫌いだから要らない、赤いバラを供えて
くれ、俺に万が一が起きたら近所の葬儀屋さんに行け、全て段取り
はしてあるから、と言われており 逝去から散骨までの全てを、父親
に言われ通りに出来た満足感があり、今のこの場に父が居て 良く
頑張ったって微笑んで見守ってくれている気がすると言うのです。
そんな風に話す彼女からは、満足感が伝わってきます。僕の感じた
印象は彼女の中で尊敬する人であり、言われた事がちゃんと出来
た満足感があり、今尚自分を見守ってくれていると感じさせるだけの
信頼関係があったのだけは分りました。父親と彼女、二人の生活
では幸せな時間を過ごせたのだと分ると 僕の中にも安堵感が
広がったのです。色々な話をした最後に「父親がなぜ散骨を選択
したか分りますか?」 と聞く僕に 「いいえ、分りませんが海が好き
だったから?」と言うので こんな風に言いました。「いいえ そうじゃ
ないですよ。自分の遺骨があったら あなたの人生の足かせになる
から、何も残さない方法を選択したはずです。きっと父親にとっても
、あなたは大切な人だったんですよ。 だから、自分が居なくなった
時は、一人で寂しく過ごすあなたより、誰かに包まれて幸せに過ご
すあなたを見ているほうがずっと気は楽なはずです。その為の何も
残さない選択、、だから、父親の亡霊に縛られるのではなくて父親
との思い出は心の中にしまって、 毎日を元気な笑顔で過ごせる
人生を選択する事が父親に対する最高の供養であり、安心させる
方法だと思いますよ」と言って彼女との時間をあとにしたのです。
群馬までの数時間、車中、頭の中で昨日からの話を繰り返して
いると、彼女から感じた満足感とも、達成感とも思える様子が、
やたらと気になるのです。お葬儀と満足感、どうしても僕の中では
ミスマッチです。葬儀=悲しみしか知らない僕にとって新鮮な感覚
でもありました。 三十八年ぶりに見た父親の写真、別の女性と
暮らした年月、恨み辛みが芽生えても不思議でない状況なのに、
僕の中には彼女に対する感謝と、幸せだったと思える安堵感だけ
しかありません。 変な感覚、、こんな風に思わせる葬儀ってなん
だろう? 僕の知らない何かがあるのかしれないと思うと帰ったら
色々調べたい衝動に駆られながら、西に沈む太陽に向って一路
前橋までの余韻とも言える心地よい数時間でした。・・・つづく
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